長らく敬遠してたけど、読んでみたら面白かった~!
メモ:アドラー心理学とは
・他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学。
・勇気の心理学。
・所有の心理学ではなく、使用の心理学。
・常識へのアンチテーゼ。
・あらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱。
・賞罰教育を強く否定。
人生は「思い込み」で、「トラウマ」は存在しない!
ある目的があって、トラウマを捏造しているだけ。
捏造ってすごいな。
例えば、大きな災害に見舞われたことは人格形成に及ぼす影響がゼロだとは言わないけど、それによって何かが決定されるわけではない。
人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。
(中略)われわれはみな、なにかしらの「目的」に沿って生きている。それが目的論です。
『嫌われる勇気』
・問題は「なにがあったか」ではなく、「どう解釈したか」である。
・大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか。
全部自分で選んでいるということ!
ライフスタイルは自ら選びとるものであり、変えられる。
ライフスタイルとは、人生における思考や行動の傾向のこと。
その人が「世界」をどう見ているのか、また「自分」をどう見ているのか。
狭義的には性格。広く言うと、その人の世界観や人生観も含む。
ライフスタイルは変えられるのに、変えない!と決心している人は、色々不満があっても「このままの私」でいることの方がラクで安心だから。
ライフスタイルを変えようとするとき、われわれは大きな”勇気”を試されます。
変わることで生まれる「不安」と、変わらないことでつきまとう「不満」。
(中略)アドラー心理学は、勇気の心理学です。
『嫌われる勇気』
あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ”勇気”が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。
短所ばかり目につくのは「自分を好きにならないでおこう」と決心しているから。
「自分を好きにならない」という目的を果たす手段として、「長所を見ずに短所を見る」ことをしている。
「〇〇だったら、△△なのに」という可能性の中に生きることができる。
ただの言い訳!
なぜあなたは自分が嫌いなのか?なぜ短所ばかり見つめ、自分を好きにならないでおこうとしているのか?それはあなたが他者から嫌われ、対人関係の中で傷つくことを過剰に怖れているからなのです。
(中略)
あなたの「目的」は「他者との関係のなかで傷つかないこと」なのです。
(中略)短所だらけの「こんな自分」でいることは、あなたにとってかけがえのない「善」、すなわち「ためになること」なのです。
『嫌われる勇気』
すべての悩みは「対人関係の悩み」である
孤独を感じるのにも他者が必要。
劣等感は、勝手な思い込み。
身長155cmの哲人。
身長は客観的に測定された数字で、一見すると「劣等性」に思えるけど、哲人は友人の言葉から「人をくつろがせる」「他者を威圧しない」という気づきを得た。
しかし問題は、その身長についてわたしがどのような意味付けをほどこすか、どのような価値を与えるか、なのです。
『嫌われる勇気』
われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」
劣等感≠劣等コンプレックス
人間の普遍的な欲求。
人は無力な存在としてこの世に生を受け、その無力な状態から脱したいと願う。
「向上したいと願うこと」
「理想の状態を追求すること」
「優越性の追求」があるから人は、立って歩けるようになったり、話せるようになったりする。
この優越性の追求と対をなすのが劣等感。
理想に到達できない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱く。
使い方さえ間違わなければ、努力や成長の促進剤となる。
しかし、劣等感を言い訳に使い始めた状態は、「劣等コンプレックス」となる。
「Aであるから、Bできない」は、劣等感の範疇ではなく劣等コンプレックスである。
この因果関係は「見かけの因果律」。
本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。
劣等コンプレックスが発展した「優越コンプレックス」!
強い劣等感に苦しみながらも、努力や成長といった健全な手段によって補償する勇気がない。
『嫌われる勇気』
かといって、「AだからBできない」という劣等コンプレックスでも我慢できない。
「できない自分」を受けれられない。
そうなると人は、もっと安直な手段によって補償しよう、と考えます。
(中略)
あたかも自分が優れているかのように振舞い、偽りの優越感に浸るのです。
偽りの優越感の身近な例は、「権威づけ」。
過度なブランド信仰や、経歴詐称など。
わざわざ言葉にして自慢している人は、むしろ自分に自信がないのです。
『嫌われる勇気』
アドラーは、はっきりと指摘しています。
「もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない」と。
「不幸自慢」は、劣等感そのものを先鋭化させることによって得意な優越感に至るパターン。
こうした人たちは、不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。
『嫌われる勇気』
(中略)
自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。
(中略)
アドラーは「わたしたちの文化においては、弱さは非常に強くて権力がある」と指摘しているほどです。
人生は他者との競争ではない。
「優越性の追求」とは、自らの足を一歩前に踏み出す意志であって、他社よりも上をめざさんとする競争の意志ではありません。
(中略)
誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです。(中略)
健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。
『嫌われる勇気』
われわれは「同じではないけれど対等」。
対人関係の軸に「競争」を置かない。
対人関係の軸に「競争」を置かない。
あなたは先ほどいいましたね?「幸せそうにしている他者を、心から祝福することができない」と。
『嫌われる勇気』
それは対人関係を競争で考え、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないのです。
「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方はまったく違ったものになる。
権力争いから復讐へ
憤りには2種類ある。
私的な怒り(私憤)は、すぐに冷める。
社会の矛盾や不正に対する憤り(公憤)は、自身の利害を超えており、長く継続する。
私憤は「権力争い」!
私憤には隠れた目的がある。それは、「権力争い」を挑んできているということ!
相手はただあなたを屈服させたいだけなので乗らない。
もし乗ってしまうと、次には「復讐の段階」が待っており、復讐の段階に来てしまうと当事者同士による解決はほとんど不可能になる。
「怒り」という道具には頼らない。
・目的をかなえるための手段であり、道具。出し入れ可能。
・コミュニケーションの一形態であり、怒りを使わないコミュニケーションは可能。
人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。
(中略)そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結すべき話です。
『嫌われる勇気』
これらはいずれも「負け」ではありません。
・誤りを認めること
・謝罪の言葉を述べること
・権力争いから降りること
個人が社会的な存在として生きていこうとすると直面する対人関係が「人生のタスク」。
・仕事のタスク
・交友のタスク
・愛のタスク
さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を「人生の嘘」と呼ぶ。
人生のタスクと向き合うことで人間の行動面と心理面のあり方における目標を達成できる。
行動面の目標
1.自立すること
2.社会と調和して暮らせること
この行動を支える心理面の目標
1.わたしには能力がある、という意識
2.人々はわたしの仲間である、という意識
他者からの承認を求めてはいけない。
アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定している。
他者からの評価ばかり気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになるから。
課題の分離
われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
『嫌われる勇気』
(中略)
あらゆる対人関係のトラブルは、他者の問題に土足で踏み込むことーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーによって引き起こされます。
誰の課題かを見分ける方法はシンプル。
「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考える。
子どもに対しての「あなたのためを思って」は、本当に子どものためか?
親の目的(世間体や見栄、支配欲)になっていないか注意すること。
「信じる」も課題の分離。
相手のことを信じる:自分の課題
相手がどう動くか:他者の課題
これらはすべて「課題の分離」ができていないから!
・他者の視線が気になる
・他者からの評価が気になる
・他者からの承認を求めてやまない
嫌な上司の存在:上司に疎まれているから仕事ができない
それは「人生の嘘」。
仕事とは、社内の人間から気に入られることではない。
「仕事をしたくない」という目的のために、嫌な上司を作り出す。
できない自分を認めたくないから嫌な上司を作り出す。
「これは誰の問題なのか?」を考える。
↓
課題の分離をする。
↓
他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。
「誰からも嫌われたくない」は、自分にも周囲の人にも嘘をつき続ける生き方。
人間の本能的な欲望。衝動的な欲望。
他者から嫌われたくないと思うこと。
「自由とは、他者から嫌われることである」
『嫌われる勇気』
(中略)
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。
お前の顔を気にしているのはお前だけ。。。
対人関係のゴールは「共同体感覚」にある。
他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられること。
幸福なる対人関係のあり方を考える最も重要な指標。
家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる。
「自己への執着」を「他者への関心」に切り替える
自己への執着(self interest)→ 他者への関心(social interest)
自己への執着は、自己中心的で他者を見ていない。
課題の分離ができておらず、承認欲求に囚われている人。
「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです。
「わたし」は世界の中心に君臨しているのではない。共同体の一部で、全体の一部。
われわれはみな「ここにいてもいいんだ」という所属感を求めている。
『嫌われる勇気』
しかしアドラー心理学では、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではなく、共同体に対して自らが積極的にコミットすることによって得られるのだと考えます。
ぼーっと”所属”しているだけは所属感は得られないってことか…
共同体へのコミットとは、
「人生のタスク」(仕事・交友・愛)に立ち向かう。
「わたしはこの人に何を与えられるか?」を考える。
→所属感は自らの手で獲得してゆくもの。
原則:より大きな共同体の声を聴け。
共同体の範囲は「無限大」。
学校なら学校という共同体のコモンセンス(共通感覚)で物事を判断せず、より大きな共同体のコモンセンスに従うのです。
『嫌われる勇気』
(中略)
「人間社会」という共同体で考えるなら、あなたも教師も対等の「人間」です。
理不尽な要求を突きつけられたのなら、正面から異を唱えてかまわないのです。
関係が壊れることだけを恐れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。
【横の関係】ほめてはいけないし、叱ってもいけない。
ほめる:「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれている。
人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」。
そこには感謝も尊敬も存在しない。
われわれが他者をほめたり叱ったりするのは「アメを使うか、ムチを使うか」の違いでしかなく、背後にある目的は操作です。
「えらいわね」「よくできたわね」「すごいじゃない」とほめる母親は、無意識のうちに上下関係をつくり、子どものことを自分よりも低く見ているのです。
そうだったのか…
アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱している。
そもそも劣等感とは、縦の関係の中から生じてくる意識です。
『嫌われる勇気』
あらゆる人に対して「同じではないけど対等」という横の関係を築くことができれば、劣等コンプレックスが生まれる余地はなくなります。
「介入」は縦。「援助」は横で、”勇気づけ”と呼ぶ。
他者の課題に対して、土足で踏み込んでいくような行為。
対人関係を縦でとらえ、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。
介入によって、相手を望ましい方向に導こうとする。
自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいる。
「勉強しなさい」と命令する親は典型的な介入による「操作」。
では、どうしたらよいか?
大前提に課題の分離があり、横の関係がある。
「勇気づけ」と呼ぶ。
勉強しなさいと上から命令するのではなく、本人に「 自分は勉強ができるのだ」と自信を持ち、自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかける。
人は、ほめられることによって「自分には能力がない」という信念を形成していく。
子育て、ムズ…
評価ではなく感謝の言葉→「自分には価値がある」と思える。
いちばん大切なのは、他者を「評価」しないということ。
評価の言葉は、縦の関係から出てくる言葉。
「ありがとう」感謝の言葉
「うれしい」素直な喜び
「たすかったよ」お礼の言葉
感謝の言葉を聞く
↓
自らが他者に「貢献」できたことを知る。
↓
「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思える。
↓
自分には価値があると思える。・・・主観的な価値
↓
ありのままの自分を受け入れ、人生のタスク(仕事・交友・愛)に立ち向かう勇気を持てる
自分が勝手に作った「理想像」から減点して他者を評価している!
他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていく。
自分のことを「行為」のレベルで考えず、まずは「存在」のレベルで受け入れていく。
われわれは他者を見るとき、ともすれば「自分にとって理想像」を勝手にこしらえ、そこから引き算するように評価してしまうものです。
ありのままの我が子を誰とも比べることなく、ありのままに見て、そこにいてくれることを喜び、感謝していく。
理想像から減点するのではなく、ゼロの地点から出発する。
そうすれば「存在」そのものに声をかけることができるはずです。
きゃー!肝に銘じます!
「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」
『嫌われる勇気』
まずは他者との間に一つでも「横の関係」を築くことを始める。
縦の関係を築くか、それとも横の関係を築くか。
これはライフスタイルの問題であり、人間は自らのライフスタイルを臨機応変に使い分けられるほど器用な存在ではありません。(中略)
『嫌われる勇気』
もしもあなたが誰かひとりとでも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気づかないうちに、あらやうる対人関係を「縦」でとらえているのです。
意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切
場の空気を読んで縦の関係に従属することは、自身の責任を回避しようとする、無責任な行為。
幸せとは貢献感で、人生とは連続する刹那。
自己への執着(self interest)を他者への関心(social interest)に切り替え、共同体感覚を持てるようになるために必要になるのが「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の3つ。
自己肯定と自己受容は違う。
できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。
これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり、自らに嘘をつく生き方であるともいえる。
「できない自分」をありのまま受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくこと。
自らに嘘をつくものではない。
「肯定的なあきらめ」をもって、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極める。
変えられないものは受け入れる。
ありのままの「このわたし」を受け入れる。
変えられるものは、変えていく”勇気”を持つ。→それが自己受容。
われわれは何かの能力が足りないのではありません。
『嫌われる勇気』
ただ”勇気”が足りていない。すべては”勇気”の問題なのです。
他者信頼で、他者を仲間と見なすことを目指す。
信用・・・条件付き credit
信頼・・・一切の条件を付けない。無条件。
信頼の反対語は、「懐疑」。
裏切るか裏切らないかは他者の問題。
「わたしがどうするか」だけを考えれば良い。
他者に信頼を寄せることは、すなわち他者を仲間だと見なすことにつながる。
仲間だからこそ、信頼することができる。
課題の分離ができるようになると人生は驚くほどシンプルな姿を取り戻します。
『嫌われる勇気』
(中略)
無条件の信頼とは、対人関係をよくするため、横の関係を築いていくための「手段」です。
他者貢献≠自己犠牲
「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるもの。
他者貢献の具体例は、仕事。社会に出て働くこと。家事をこなすこと。
労働とは、金銭を稼ぐ手段ではない。
仕事の本質は、他者への貢献
労働によって他者貢献をする。
↓
共同体にコミットする。
↓
「わたしは誰かの役に立っている」ことを実感する。
↓
「ここにいてもいいんだ」という所属感を確認する。
↓
自らの存在価値を受け入れている。
他者がわたしになにをしてくれるかではなく、わたしが他者になにをできるかを考え、実践していきたいのです。
『嫌われる勇気』
その貢献感さえ持てれば、目の前の現実はまったく違った色彩を帯びてくるでしょう。
「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」は円環構造として結びついている。
裏切りを怖れることがなく
他者に無条件の信頼を寄せて、人々は自分の仲間だと思えている
「わたしは誰かの役に立っている」と実感する
「人生の調和」を欠いた生き方
世の中は善人ばかりではない。
でも、攻撃してくる「その人」に問題があるだけで、「みんな」が悪いわけではない。
なにかと「みんな」「いつも」「すべて」といった言葉を使うのは要注意
物事の一部分だけを見て、全体を判断する生き方。
あなたを嫌う1人に注目するのか。
それともあなたのことが大好きな2人にフォーカスを当てるのか。
あるいは、その他大勢である7人に注目するのか。
人生の調和を欠いた人は、嫌いな1人だけを見て「世界」を判断してしまう。
対人関係がうまくいかないのは、自己受容や他者信頼、または他者貢献ができていないことが問題なのに、どうでもいいはずのごく一部にだけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている。
幸福とは「貢献感」である。
あなたの貢献が役に立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。
『嫌われる勇気』
それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。
ほんとうに貢献できたかどうかなど、原理的にわかりえない。
つまり他者貢献していくときのわれわれは、たとえ目に見える貢献でなくとも、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それで良いのです。
主観的な感覚ってことは、やっぱり思い込みってこと?!
普通であることの勇気
「優越性の追求」という普遍的な欲求が、「安直な優越性の追求」(特別によくあろうしたり、悪くあろうとしたりする行動)にならないために、アドラー心理学では「普通であることの勇気」を大切にしている。
普通であることは、無能なのではありません。
『嫌われる勇気』
わざわざ自らの優位性を誇示する必要などないのです。
計画的な人生は不可能。
人生とは、連続する刹那なのです。
『嫌われる勇気』
(中略)
「いま」という刹那の連続です。
われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。
われわれの生とは、刹那の中にしか存在しないのです。
それを知らない大人たちは、若者に「線」の人生を押し付けようとします。
いい大学、大きな企業、安定した家族、そんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと。
でも、人生に線などありえません。
ダンスをするように生きる
人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那。
ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、それでOK。
エネルゲイア的(現実活動態的)な人生:過程そのものを、結果と見なすような動き
→人生は常に完結している。
禅の境地みたいになってきたな…
人生に意味はない。迷うなら、他者貢献すれば良し!
「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」
人が自由を選ぼうとしたとき、道に迷う時は、自由なる人生の大きな指針として「導きの星」を掲げている。
あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。
『嫌われる勇気』
嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。
わたしの力は計り知れないほどに大きい
「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。
『嫌われる勇気』
世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない、ということです。
思い込みだからね!
【感想】「人の気持ちがわからない」という長年の悩みが解消されたかも。
私、子どもの頃から「人を喜ばせたい」という気持ちがずっと理解できませんでした。
アイドルが言う「人に夢を与えたい」とか。
だって、どんなに目の前の人が笑っていても、喜んでいても、本当にその人が喜んでいるかなんてわからないですよね?
私は、面白くなくてもそこそこ笑うし、ニコニコもする。
大して嬉しくなくても、喜びます。
だって、相手に悪いから。
さほど愛想の良い方ではないけど、相手を怒らせたくないし、気も遣う。
OL時代は、イヤミにならない程度におべっかも使いまくった。
それが大人の対応だと思っていたし、社会性だと思っていた。
しかし、『嫌われる勇気』に照らし合わせると、私は自分にも他人にも嘘をついていたことになる。
「人生の嘘」だ。
人生の嘘をついているとどうなるか?
共同体感覚を得られないようだ。
共同体感覚とは、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられること。
たしかに、仲間だと思える人以外は、仲間だと思ってこなかった。
OL時代の上司・同僚は敵に近かったな…
『嫌われる勇気』で最も驚いたのは、
それは対人関係を競争で考え、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないのです。
という部分。
他者の幸福を「わたしの負け」って!!
認めたくないけど、たしかになあ。苦笑
私は2人目不妊だったから、芸能人の2人目ご懐妊ニュースには妙な敗北感を覚えます。
そんな自分が嫌だったけど、それは「対人関係の軸に競争を置いていた」からなのかあ。。
納得。
じゃあ、どうしたら他者を仲間だと思える共同体感覚を身につけられうか?というと、
私がこれまで”大人の対応””社会性”と思ってきた「嘘 」をやめること。
すなわち、「嫌われる勇気」を持つってことなのですね。
え~嫌われたらさー、攻撃されるかもしれないじゃん?
怖いじゃん、他人。
ここで課題の分離が必要なのだ。
「私のことを嫌う」というのは、他者の課題であって、私の課題ではない。
「他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない」ので、私は他者が私を嫌うことはコントロールできない。
「他人は怖いなあ、嫌われたらやだなあ」
こんなことしたら、ああ思われるんじゃないか。
髪型ヘンじゃないかな。爪にネイルしてないけどサンダル履いてもいいかな。
って思うのは、「自分にしか関心がない自己中心的なライフスタイル」と言われちまった!
じゃあ、どうする?
われわれは同じではないけど対等!対人関係は「横の関係」でとらえる!
難しいけど、意識です。
私の場合は「対子ども」。
「ほめ育児」をしてきたつもりだったけど、「ほめ」は縦の関係で、しかも「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」ですって!
そんな言い方しなくてもいいじゃん、アドラー…
ほめる&叱るという「評価」をやめて、「感謝」の言葉をかける。
ありがとう&うれしい&助かったよ。
子どもの存在そのものを喜ぶ!ってことですね。
まずは、ありの~ままの~自分を受け入れる「自己受容」!
自己受容ねえ…。
これもわかるようなわからないような。
自己受容→他者信頼→他者貢献→自己受容→他者信頼…という構造らしい。
「貢献感」が幸せ。
「自分が誰かの役に立っている」と思えることは、自分の課題であって、他者の課題ではない。
主観的な感覚なので、つまり、「思い込み」だ。
「人を喜ばせたい」も思い込みで良いんだ!
私がしたことで誰かが喜んでくれた。
と思うことは、傲慢なことではなくて、主観的な感覚であり「貢献感」!
そもそも「傲慢」とは、高ぶって人をあなどり見くだす態度であること。
「私がしたことで誰かが喜んでくれた」と思っても、人をあなどり見下しているわけではないから傲慢ではない。
どんどん思い込んでいけば良いのだ。
どのみち、本当に他者が喜んでいるかどうかに私は介入できない。
私の課題は、私のもの。
他者の承認を求めた時点で、他者の課題に介入しているのだ。
私が誰かの何かの役に立っていると思いこんでいけば、それで良いのだ。
【まとめ】最後に、OL時代を振り返ると…
嫌いな上司も苦手な先輩もたくさんいて、常に「会社辞めたい」って思いながら15年も勤め続けていた私。
目的論に照らし合わせると、私は「会社を辞めたい」という目的のために、嫌いな上司や苦手な先輩を作り出していたことになる。
そして、「職場の人間関係は難しい」というトラウマもまた、「会社で働きたくない」という私が捏造したものだ。
15年間、私は、劣等コンプレックスの上司や先輩から、さんざん「介入」されてきたなあと思う。
結局、退職したけれど、それは私が望んでいたことであって、上司や先輩のせいではない。
原因は私が捏造したのだ。
私は今、会社の最寄り駅には近づきたくないなあと思う。
それは、人間関係のトラウマが原因で、会いたくない人がたくさんいるからだと思っていたけど、たぶん違う。
トラウマは目的のために捏造されるものであり、存在しないから。
ただ単に、会社の最寄り駅に用事がないから近づく必要が無いだけだ。
さんざん通っていたから新鮮味も無いし、どうでもいいからだ。
そうやって、物事をシンプルにしていこう。
私が好きな自分で、好きな世界を作って、積極的にコミットしていこう。
誰も私を攻撃しない(したとしてもそれは他者の課題)し、私はやりたいようにやるだけだ。
めっちゃ楽しいやん。
ネイルせずにサンダル履いてもOK。息子が走り回ってもOK。
私はそういう世界に生きている。