『嫌われる勇気』の続編です。
恋愛&結婚&子育てに悩む人必読!の内容でした。
アドラー心理学に「魔法」は無い。
教育は、尊敬と共感から。
教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」。
尊敬:自立に向けた援助の第一歩
尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。
尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである。
「勇気づけ」の原点ともいえる。
私が知っている「尊敬」ではないな。
「自分もそうありたい」という憧れに似た感情のことは「尊敬」ではない。
それは尊敬ではなく、恐怖、従属、信仰!
相手のことを何も見ておらず、権力や権威におびえ、虚像を崇めているだけ!
なんとー!!
では、どうやって尊敬すればよいのか?
まず、ありのままにその人を見る。
まず、ありのままのその人を見る。
自分の価値観を押しつけようとせず、その人が「その人であること」に価値を置く。
さらに、その成長や発展を援助する。
「他者の関心事」に関心を寄せる。
「遊んであげる」のではなく、自分自身がそれを楽しむ。そのときはじめて、子どもたちは自分たちが認められていること、子ども扱いされていないこと、ひとりの人間として「尊敬」されていることを実感するでしょう。
『幸せになる勇気』
「他者の関心事」に関心を寄せることは、あらゆる対人関係で求められる、尊敬の具体的な第一歩!
共感:他者に寄り添う態度
共感とは、他者に寄り添うときの技術であり、態度。
技術なので誰にでも身につけることができる。
たとえば、まったく勉強しようとしない生徒がいる。
『幸せになる勇気』
ここで「なぜ勉強しないんだ」と問いただすのは、いっさいの尊敬を欠いた態度です。
そうではなく、まずは「もしも自分が彼を同じ心を持ち、同じ人生を持っていたら?」と考える。
つまり、自分が彼と同じ年齢で、彼と同じ家庭に暮らし、彼と同じ仲間に囲まれ、彼と同じ興味や関心を持っていたらと考える。そうすれば「その自分」が、勉強という課題を前にどのような態度をとるか、なぜ勉強を拒絶するのかを想像できるはずです。
→距離を置いて眺めているだけではダメで、自らが飛び込まなくてはならない。
飛び込まない場合、高いところに立って「それは無理だ」「これだけの壁がある」と批評しているだけ。
そこには尊敬も共感もない!
わ~私は高いところに立って批評していただけだ‥
尊敬も共感もしてなかった!
「過去」は存在しない。
現状に不満がある場合
「それまでの自分」に見切りをつけ、否定し、二度と顔を出さないように葬り去って初めて「新しい自分」に生まれ変わる。
つまり、変化することは「死そのもの」。
現状に不満があるからと言って、死を選ぶことは簡単ではない。
だから、人は変わろうとしないし、どんなに苦しくても「このままでいいんだ」と現状を肯定するため、「このままでいい」材料を探しながら生きることになる。
可能性の中に生きるのはダメだなあって思う。
現状を変えたいよね。
現状を肯定できる場合
「色々あったけどこれでよかった」と不幸だった過去をも肯定する。
「これでよかったのだ」と思いたいから、過去がよい思い出になる。
「いまの自分」に満足していないと、過去は悪いものになる。
問題は、過去に何があったかではなく、その過去を「いまの自分」がどう意味付けするか。
われわれの世界には、ほんとうの意味での「過去」など存在しません。
『幸せになる勇気』
十人十色の「いま」によって色を塗られた、それぞれの解釈があるだけです。
過去は十人十色の解釈なんだ…
過去が存在しないなら、「記憶」とは何か?
記憶についは、人は過去に起こった膨大な出来事のなかから、いまの「目的」に合致する出来事だけを選択し、意味づけをほどこし、自らの記憶としている。
『幸せになる勇気』
逆に言うと、いまの「目的」に反する出来事は消去するのです。
あなたの「いま」が過去を決めている:「自らの生を選びうる」
これが、アドラー心理学が「使用の心理学」と言われる所以。
悲劇に酔うな。「心の三角柱」
われわれの心を表す三角柱
一面には「悪いあの人」、もう一面には「かわいそうなわたし」
しかし、われわれが語り合うべきはこの2つではない。
いま隠れているもう一面
よって、「過去のあなた」ではなく「目の前にいるあなた」を知れば十分ということ。
悲劇に酔うのもNG。
アドラー心理学は、人間知の心理学
人間が人間として幸福に生きるための「知」。
共同体のなかでどのように生きるべきなのか。
他者とどのように関わればいいのか。
どうすればその共同体に自分の居場所を見出すことができるのか。
「わたし」を知り、「あなた」を知ること。
人間の本性を知り、人間としての在り方を理解すること。
叱ってはいけない、ほめてもいけない。
子どもたちは残酷なのではなく、ただ「知らない」だけ。
大人たちのやるべきこと
知らないのならば、教える。
そして教えるにあたって、叱責の言葉はいらない。
人間の問題行動 5段階
第1段階 称賛の要求
【行動】
親や教師、他の人に向けて「いい子」を演じる。
組織で働く人間の場合、上司や先輩に向けて、やる気や従順さをアピールする。
【目的】
あくまでも「ほめてもらうこと」であり、「共同体のなかで特権的な地位を得ること」。
【問題点】
彼らは「よいこと」としているのではなく、「ほめられること」をしているだけ。
褒めてくれる人がいなければ、適切な行動をしない
罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる
というライフスタイル(世界観)を身についていく
【対応方法】
尊敬を示すことで、特別でなくても価値があるのだと教えていく。
「いいこと」をしたときに注目するのではなく、日ごろの些細な言動に目を向ける。
その人の「関心事」に注目し共感を寄せていく。
第2段階 注目喚起
【行動】
ほめられなくてもいいから、とにかく目立ってやろうとする。
「できない子」として振舞うことで注目を集め、特別な地位を得ようとする。
【目的】
自らが属する共同体のなかに、確固たる「居場所」がほしい。特権的な地位を得たい。
【対応方法】
「尊敬」によって、特別である必要はない、そのままで十分価値があるのだと伝えていく。
第3段階 権力争い
【行動&目的】
誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む。
その戦いに勝利することによって、自らの「力」を誇示しようとする。特権的な地位を得ようとする。
一言でいうなら「反抗」。
汚い言葉で罵ったり、暴れたり、万引きや喫煙などのルール違反も。
消極的な子どもは「不従順」。
不従順を貫くことで、自らの「力」を証明したい。
【対応】
すぐさま彼らのコートから退場する。やるべきことはこれだけ。
多くの親や教師たちは、ここで怒りのラケットを手に取り、叱責というボールを打ち返します。
『幸せになる勇気』
しかしそれは、挑発に乗り「相手と同じコートに立つこと」でしかありません。
彼らは嬉々として次なる反抗のボールを打ち返してくるでしょう。
自分の仕掛けたラリーがはじまったのだと。
ムカついても、叱責してはいけないポイントはここか?!
第4段階 復讐
【行動】
戦いに敗れた人は、いったん引き下がった後に「復讐」を画策する。
かけがえのない「わたし」を認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に、愛の復讐をする。
ひたすら「相手の嫌がること」を繰り返す
ストーカーは典型的な復讐。「憎悪」や「嫌悪」によってつながろうとする。
自傷行為や引きこもりも同様。
グロテスクな趣味に走ったり、復讐の手段はさまざま。
称賛の要求、注目喚起、そして権力争い。これらはすべて「もっとわたしを尊重してほしい」という、愛を乞う気持ちの表れです。ところが、そうした愛の希求がかなわないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになるのです。
『幸せになる勇気』
【目的】
憎まれること
第5段階 無能の証明
【行動】
人生に絶望し、自分のことも心底嫌いになり、自分には何も解決できないと信じ込むようになる。
あらゆる課題から逃げ回るようになる。
「自分はこれだけ無能なのだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになる。
【目的】
自分を見捨ててほしい。
【対応】
親や教師にできることはない。
専門家に頼るしかないが、専門家にとっても困難。
すべては「所属感」つまり「共同体のなかに特別な地位を確保すること」という目的に根差している。
叱責されることは彼らの望むところなので、「叱る」という手段は教育上まったく有効でないということ。
むずかしい~。
ややこしいことにならないように、とにかく「尊敬」&「共感」でいっとけ!ってこと?
「叱る」は意味がない。
喧嘩両成敗の時、ケンカの原因を探って「悪いあの人」と「かわいそうなわたし」の話になっていないか?
話し合うべきは、原因ではなく「目的」に注目し、「これからどうするか」を考えるべき。
暴力という名のコミュニケーション
コミュニケーションは、伝えるだけでは意味がなく、伝えた内容が理解され、一定の合意を取り付けたときに意味を持つ。
言語によるコミュニケーションは合意に至るまで時間も手間もかかる。
しかも、コストの割に即効性と確実性が乏しい。
議論にうんざりしたり、勝ち目がない人の最終手段が暴力。
暴力はコストが低い安直なコミュニケーション手段で、人間としてあまりに未熟な行為。
目の前の子どもを守るべき。
親や教育者に裁きを下す特権は与えられていない。
「裁判官の立場を放棄せよ」!
親や教育者が守るべきは法でも秩序でもなく、「目の前の子ども」。
教育者はカウンセラーであり、カウンセリングとは「再教育」。
暴力行為→「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が無意識のうちに働く。
あなたは未熟な人間を、「尊敬」することができますか?(中略)
『幸せになる勇気』
怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。
それどころか軽蔑を招く。叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。
「怒りとは、人と人を引き離す感情である」。
自分の人生は自分で決められる。
われわれは、「他者の指示」を仰いで生きていた方がラク。
過保護な親は、子どもが自立することを怖れている。
多くの親は潜在的に、子どもたちが自立することを怖れている。
子どもたちが自立して自分と対等な立場になってしまったら、親の権威が崩れる。
「縦の関係」を崩されるのが怖い。
子どもの失敗=親の失敗
責任から逃れるために、子どもを支配する。
子どもたちに冒険を許さず、無難で、怪我をしない道を歩かせる。
子どもと横の関係を築くことが大事ってことかな?
依存と無責任の関係に置かない。目標は自立。
相談者や生徒を「依存」と「無責任」の地位に置かないことに注意する。
常に「自立」という目標を掲げなければならない。
「先生のおかげで治りました」=「わたしひとりではなにもできません」
→自らの力でそれを成し遂げたと感じてもらわなければならない。
感謝の言葉を期待するのではなく、相談者や生徒の自立に貢献できたという貢献感の中に幸せを見出すしかない。
子どもへの親の言葉:遊びに行ってもいい?と聞かれたとき
例えば、子どもから「友達のところに遊びに行ってもいい?」と聞かれた時
もちろんいいよ。(許可)
宿題をやってからね。(条件付け)
だめ。(禁止)
教育者としてあるべき姿
それは自分で決めていいんだよ。
その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?→課題の分離
子供たちの決断を尊重し、その決断を援助する。
いつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助が出来る距離で見守る。
失敗したとしても「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでもらう。
「ほめる」は危険
「ほめる」は競争を生むから危険
「ほめられること」を目的とする人々が集まると、共同体に「競争」が生まれる。
競争相手は「敵」なので、子どもたちは「他者はすべて敵なのだ」「人々はわたしを陥れようと機会を窺う、油断ならない存在なのだ」というライフスタイルを身につけていってしまう。
危険だ…
民主主義的な組織=協力原理に基づいて運営される共同体
賞罰をやめる→競争の芽を一つずつ摘んでいく。競争原理を無くしていく。
競争原理=縦の関係
協力原理=横の関係 ←アドラー心理学
承認欲求と劣等感
アドラー心理学の大前提
承認欲求を否定する:「あの人」の期待を満たす生き方を選んではならない。
われわれ人間は子ども時代、ひとりの例外もなく劣等感を抱えて生きている。
人間はその弱さゆえに共同体をつくり、協力関係の中に生きている:単独では生きられないほど弱い
孤立した人間は、身の安全、心の安全が脅かされる⇒本能的にわかっている。
すべての人には共同体感覚が内在し、それは人間のアイデンティティと深く結びついているのです。(中略)
『幸せになる勇気』
共同体感覚は「身につける」ものではなく、己の内から「掘り起こす」ものであり、だからこそ「感覚」として共有できるのです。
ほんとうの承認とは、「自立 」。
承認には終わりがない。→自らの意思で、自らを承認するしかない。
「わたし」の価値を自らが決定すること。これを「自立」と呼ぶ。
他者からの承認が無いと自分に自信が持てない人は、「普通であることの勇気」が足りていない。
自立という言葉を聞いたとき、それを経済的な側面ばかりから考える人がいます。しかし、たとえ10歳の子どもであっても、自立することはできる。50歳や60歳であっても、自立できていない人もいる。自立とは、精神の問題なのです。
『幸せになる勇気』
信頼と尊敬を自分から与える。
ひとりの個人が社会で生きていくにあたって直面せざるを得ない課題が「人生のタスク」
仕事のタスク(関係)、交友のタスク(関係)、愛のタスク(関係)
「すべての悩みは、対人関係の悩みである。」
・・・「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」(幸福の定義)が隠されている。
「われわれは交友において、他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じることを学ぶ」。
→共同体感覚の定義。
学校は、子どもたちが最初に「交友」を学び、共同体感覚を掘り起こしていく場所となる。
信用と信頼
【信用】相手のことを条件つきで信じること。→仕事の関係
【信頼】他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないこと。→交友の関係
信用=分業
分業とは、人類がその身体的劣等性を補償するために獲得した、類まれなる生存戦略。
→他者と「分業」するためには、相手のことを信じなければならない。これが「信用」。
分業の根源にあるのは「利己心」→職業に貴賤はない。
純粋な利己心の組み合わせが、分業を成立させている。
分業社会のおいては、利己を極めると利他になる。⇒利己心を追求した先に「他者貢献」がある。
すべての仕事は「共同体の誰かがやらねばならないこと」で、われわれはそれを分担しているだけ。
よって、どのような仕事も等価である。
人間の価値は「どのような仕事に従事するか」によって決まるのではない。その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まる。
「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困ったとき、助けたいか?」を決める要因は、その人の誠実さであり、仕事に取り組む態度となる。
尊敬=信頼
他者のことを「信頼」できるか否かは、他者のことを「尊敬」できるか否かにかかっている。
尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。
尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである。
アドラーの「大切なのは、なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」という言葉を思い出してください。
『幸せになる勇気』
どんあ相手であっても、「尊敬」を寄せ、「信じる」ことはできます。
先に「信じる」こと
ほんとうの信頼とは、どこまでも能動的な働きかけ
たとえその人が嘘を言っていたとしても、嘘をついてしまうその人ごと信じる。
分かり合えないから信じる。
自分を愛することができない⇒他者を愛することができない
自分を信じることができない⇒他者を信じることができない
ありのままの自分を受け入れられない人
絶え間ない不安にさらされている⇒自分にしか関心が向かなくなる。
仕事によって認められるのは、あなたの「機能」であって、「あなた」ではない。
『幸せになる勇気』
より優れた「機能」の持ち主が現れれば、周囲はそちらになびいていきます。
それが市場原理、競争原意というものです。結果、あなたはいつまでも競争の渦から抜け出すことができず、ほんとうの意味での所属感を得ることもないでしょう。
まずは目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。
われわれにとっては、なんでもない日々が試練であり、「いま、ここ」の日常に、大きな決断を求められている。
与えよ、さらば与えられん。
「与えてもらうこと」ばかりを求めている人は、心が困窮している。
われわれは、心を豊かに保ち、その蓄えを他者に与えていかなければなりません。他者からの尊敬を待つのではなく、自らが尊敬を寄せ、信頼を寄せなければなりません。・・・心の貧しい人間になってはいけないのです。
『幸せになる勇気』
愛すること
能動的な愛の技術「他者を愛する技術」。
貢献感の中に幸せを見出す
われわれはみな、「わたしは誰かの役に立っている」と思えた時に、自らの価値を実感することができる。
↓
でも、目の前で喜んでいる人が”本当に”喜んでいるのか?は原理的にわかりえない。
↓
貢献感があればOK。
根拠を求める必要はない。
主観的な「貢献感」の中に、幸せや喜びを見出せば良い。
「わたし」から「わたしたち」へ主語が変わる
ひたすら信じ、与える「利他的」な態度⇒交友の関係が生まれる。
愛は、利己と利他の両方を退ける。
われわれは生まれてからずっと、「わたし」の目で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き、「わたし」の幸せを求めて人生を歩みます。これは全ての人がそうです。
『幸せになる勇気』
しかし、ほんとうの愛を知ったとき、「わたし」だった人生の主語は、「わたしたち」に変わります。利己心でもなければ利他心でもない、まったくあたらしい指針の下に生きることになるのです。
「わたし」を脱却することが自立。
子どもは無力→周囲に己の弱さをアピールする→世界の中心に君臨する。という自己中心性から人間は出発する。
自立とは、「自己中心性からの脱却」。
だからこそアドラーは、共同体感覚のことをsocial interest と呼び、社会への関心、他者への関心と呼んだのです。
『幸せになる勇気』
われわれは頑迷なる自己中心性から抜け出し、「世界の中心」であることをやめなければならない。
「わたし」から脱却しなければならない。
甘やかされた子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならないのです。
愛は自立
命に直結した生存戦略:「愛されるためのライフスタイル」
いかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば「世界の中心」に立てるか模索する、どこまでも自己中心的なライフスタイル。
誰かのことを愛する時に、子ども時代のライフスタイルと決別し、真の自立を果たすことができる。
われわれは他者を愛することによって、ようやく大人になる。
愛することへの恐れ
課題の分離
愛すること…自分の課題
相手がわたしの愛に応えるかどうか…相手(他者)の課題 ⇒コントロールできない。
できることは、課題を分離し、ただ自分から先に愛すること。
結局あなたは、「この人はわたしを愛してくれるのか?」しか見ていないわけです。
『幸せになる勇気』
相手のことを見ているようで、自分のことしか見ていない。
そんな態度で待ち構えているあなたを、誰が愛してくれるでしょうか?
自分の隠し持つ子ども時代のライフスタイル(親が愛してくれた黄金時代)を直視し、刷新しなければならない。
愛してくれる誰かが現れるのを待っていてはいけません。
耳が痛い人は多そうだなあ…
運命の人はいない。
「出会いがない」と嘆く人の正体
ささやかな「出会い」を、なにかしらの「関係」に発展させるには、勇気が必要となる。
その勇気をくじかれた人が、「運命の人」という幻想にすがりつく。
目の前に愛すべき他者がいるのに、あれころ理由を並べて排除する。
そして、可能性の中に生き、幸せは向こうから訪れるものだと思っている。
愛とは「決断」。
結婚とは「対象」を選ぶのではなく、自らの生き方を選ぶこと。
フロムの言葉
誰かを愛するということはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。
愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持ていない人は、わずかにしか愛することができない。
われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。
他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。
そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。
愛に踏み出しましょう。そして愛した人と、「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾けましょう。
『幸せになる勇気』
タイムリミットなど、気にする必要はありません。
未来が見えないこと、それは未来に無限の可能性があるということです。
『幸せになる勇気』
われわれは未来が見えないからこそ、運命の主人になれるのです。
【感想】読めてよかった。アドラー、誤解してたかも。
『嫌われる勇気』に続いて、読んでみました。
青年を大泉洋だと思って読むと楽しい。という説を採用したら、とても楽しく読めました。おすすめです!
私は子育て中なので、アドラーと言えば「怒らない子育て」。
怒らない…しかも、「ほめない」って、どういう意味?ほめない育児を理解したい!というのが、読了のモチベーションでした。
が、この『幸せになる勇気』は内容が盛りだくさんでなかなか消化しきれないなあ…。
世界はシンプルであり、人生もまた同じである。しかし、「シンプルであり続けることはむずかしい」と。そこでは「なんでもない日々」が試練となるです。
『幸せになる勇気』
子育て中の身としては「なんでもない日々が試練となる」に尽きます。
ほんと、日常のささいなことが”試練”って感じです。
でも、毎日毎秒、変われるチャンスがあるし、今まで持っていなかった選択肢が増えたとも思えました。
尊敬の意味が衝撃的!
人間関係は相手への敬意が大事だとは思っていたけど、それとも違う。
相手のありのままを見ることが「尊敬」だったとは…。
やっぱりまだまだ私は「縦の関係」を築きがちだな。
相手を見上げるような態度を「尊敬」だと思っていたし、それを態度で示すことはマナーだと思っていた。
しかし、それではいけないのだ。
「横の関係」を築いていかなければ。
心の三角柱は大事
「悪いあの人」と「かわいそうなわたし」。
その後ろには「これからどうするか」が隠れていて、考えるべきは「これからどうするか」。
ジャニーズ事務所の問題を見ていると、この心の三角柱を思い出しました。
事務所の人たち、アイドルたち、被害に遭われた方々、ジャニーズファン…。
それぞれが色んな意味で心を痛めているけど、心の三角柱を用いることでしか良い方向には行けないですよね。
「可能性の中に生きる」と気づく辛さ
『嫌われる勇気』から引き続き『幸せになる勇気』にも出てきた「可能性の中に生きる」という言葉。
これに気づけるか気づけないかで、人生は大きく変わりますよね。
結局、あれこれ理由をつけて可能性の中に生きるのってラクですもんね。
でも行き過ぎると、被害妄想につながる気がするから、早めに気づいて方向転換しないと!
とにかく、全人類必読の書という感じだけど、『嫌われる勇気』と併せて累計一千万部ってすごいですね。
私も一千万分の一員として、日々の試練に向かっていきたいなと思いました。
とにかく、2・3回読んでも何も変わらないということはわかりました。
日々、実践する。これしかないですね。